☆★GCSS「蒼の夜想曲(ノクターン)」★☆ 杜亜希
その夜、大分、遅く。
…ぴんぽーん…。
申し訳なさげに鳴ったチャイムは、しんとした家に響き渡った。
だが、返事はない。ひんやりとした空気が、少し動いただけで。
「…あのぅ」
小さな声が扉越しに響く。
「…梨菜ちゃん…、ちーちゃん…?」
愛沙は扉の外。制服のまま、コートを羽織って立っている。
小麦の光をはらんだ金色の髪は、夜の中でもひときわ輝いているよう。
その下の蒼の目が寂しげにぱちぱちと瞬く。そうしてため息をついた唇は咲き初めの
桜のよう。吐く息は白く立ち上る。
「…いないのかな…」
もう一度、チャイムを鳴らす。少し待つ、だが返事はない。
梨菜ちゃんも、いないのかな…。思って扉を軽く叩いてみるが、やはり返事はない。
「…どうしよう…」
迂闊だった。
先に確かめておけば良かったのだ。
そうすれば、こんな時間に、お邪魔することも無かったのに。
はぁっと息を吹きかけた指先は、手袋をしていたといえど、かじかんで冷たい。
…帰ろうかな…
そう思って、もう一度だけ振り返って、だけど誰も出てこないのを見てため息をついて。
踏み出して。
はっと、止まる。
門の向こう、道路に、ひとつの影がすっと伸びている。
それは、すいと愛沙の目の前に現れて。
目を、ぱちくりさせる…千草色の目を。
「あれ…愛沙じゃん。何やってんの、こんなとこで」
…千草くん、出かかった言葉を、愛沙は吃驚と飲み込んだ。
蒼の髪は左の方で分けてあり、その下の目は鋭く、挑戦的に愛沙を見上げている。
いつもの和服とはほど遠いような、黒と、革の服装。いつもと違う…
そこまで思って愛沙ははっとした。
そうだ、…これは『夜の』ちーちゃんなんだった。
不思議そうに目を瞬く千草の前で、愛沙は少し笑った…目を微笑ませ、唇を笑わせた。
「あ、おかえりなさい」
「お、おぅ…」
予想していなかった答えだったのか、千草は曖昧に答えてから胡散臭げに目を細めた。
「…で、何?俺に用事?」
「あ、うん、えーっと…」
「姉貴なら、出かけてるぜ?多分帰ってこないと思うけど」
そう言って愛沙の横を抜けようとする…その袖を愛沙はきゅっと掴んだ。
千草は吃驚して振り向いた。まん丸な目をそのまま愛沙に向けた。
「…何?俺なの?」
「うん、うん、あのね…あの」
愛沙はうつむいた。どうしよう、どうしよう。
梨菜ちゃんがいれば、梨菜ちゃんと行こうと思ったのに。
でも帰ってこないなら、…こないのなら、仕方ないの、かも。
そこまで思って、一回大きく深呼吸をして。
そうして、千草の目を見た。しっかりと見据えた。それから笑った。
「お買い物に、行きましょう」
「は?」
千草はその目をさらにまん丸にした。それから顔をしかめた。
マジかよ、とつぶやいた。
「…何?今から行くの?こんなに遅いのに?」
「うん…だって、必要なんだもの」
「…あぁそう…」
納得しかけたのか、息を吐くが、唐突に顔を上げて。
「で、…何で俺なんだよ。愛珠はどうした?」
「愛珠ちゃんは…えっと」
愛沙はそこで言葉を切って、少し唇を舐めた。
「…びっくり、させたいの」
「へ?」
「だからね、内緒にするの。だからちーちゃん、一緒に行きましょう」
「え、わ、ちょ、ちょっと!」
返事も待たず、愛沙はその手を引いて。
男の子と、それも、2人っきりで買い物に行くなんて初めてだわ、と思った。
四季お兄ちゃんとなら、あゆむくんとなら、何度か一緒に行ったことがある。
でも四季お兄ちゃんは…いつもあゆむくんと一緒だし、だから、2人きりなんて無かった。
初めて、だわ。
そう思うと、何だか胸がドキドキするようで。
街のネオンはまだ眠らない。
空気は冷たく、肌を切るよう。行き交う人々もコートの襟を合わせ、
あるいは寒そうにポケットに手を入れて、せわしなく歩いていく。
何だかカップルが多いわね…、いつもは気にもならなかったが、今日はなんだか目に付いた。
白いコートの細身の少女は、黒のコートの若者の腕に腕を絡めて。
パーティ帰りなのか、スーツの男性とドレスの女性は楽しそうに話ながら。
「…を買うんだよ」
だから、その言葉は耳に入ってこなかった。
そこしか聞こえなかった。
え、と言って千草を向くと、彼はむっとしたように前を向いて、
コートのポケットに手を入れて歩いている。
「…?」
愛沙が首を傾げると、千草は横目で愛沙を見た。
それから、むぅっとふくれてふいっとそっぽを向いた。
「だから、何を買うんだって」
「…え?えっとね」
愛沙はふぅっと息を吐いた。それから周りを見回した。
大きな看板の、デパートが目に映った。そのまま、そこを指さす。
「あのね、ケーキ」
「ケーキぃ?」
「うん、そう…」
言いながら千草を見ると、納得できない顔。
でも、ふぅっと息を吐いて。
「じゃ、早く行こうぜ」
さりげなく、手を握る。その感触に愛沙は何だか吃驚する。
…ふ、普通じゃない、四季お兄ちゃんも、歩くんも、手くらい握るわ。
手の温かさと同じくらい、頬も、熱い。